長嶋は同期の杉浦忠投手、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せた。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。
----《エピソード》---
大学2年生のころ野球部の環境に嫌気がさし、野球部の合宿所を抜け出し、中日ドラゴンズの球団事務所を訪問。その上で「軍隊のような立教野球部が嫌になったので、大学を中退して中日で野球をやり、と申し出たが、応対した中日の球団代表から申し出を拒否された。
当初南海ホークスへの入団が有力視されていたが、読売ジャイアンツ(巨人)が長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手になり、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。

